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東京高等裁判所 昭和55年(う)1790号 判決 1982年1月28日

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は、全部被告人の負担とする。

理由

<前略>

四つぎに、所論は、被告人の行為が犯罪の構成要件を充足するとしても、実質的違法性がないので、犯罪は成立しないと主張するのでこの点について検討する。所論が被告人の行為につき、実質的違法性がないとする根拠は、要するに、障害児の教育は、健常児との総合的な普通学校における教育が保障されなければならず、障害児を健常児から分離し、特殊教育を強制する教育行政は、教育基本法一〇条一項、憲法二六条、二五条、一四条に違反するものであるから、この分離教育に反対し、総合教育を求める運動としての自主登校の過程においてなされた被告人の本件行為は、目的において正当であり、手段においても相当の程度を超えるものではないから、実質的違法性がないとするものと解される。

(1)  そこで、まず、被告人の本件行為のなされた昭和五四年五月二六日当時施行されていた障害児教育の制度についてみるに、学校教育法七一条の二は肢体不自由者の故障の程度は政令で定めることとし、これを受けて学校教育法施行令二二条の二は、肢体不自由者の故障の程度を具体的に指定し、その肢体不自由者(以下障害児という。)が学齢に達したときは、保護者は同法二二条により養護学校の小学部に就学させる義務を負うとともに、同法七四条は、都道府県に養護学校を設置することを義務づけている。すなわち、障害児については、健常児と分離し、養護学校の小学部において、普通小学校に準ずる教育を施し、あわせてその欠陥を補うために必要な知識技能を授ける特殊教育をするのが現在の制度である。

このように、障害児を健常児から分離し、特殊教育を実施する制度は、都道府県単位に養護学校の設置が義務づけられ、人的物的な設備が整備された昭和五四年四月一日以降のことであり(昭和四八年政令第三三九号)、それ以前にあつては、学校教育法は、障害児に対する特殊教育の規定を設けていなかつたため、法律上は、障害児は健常児と区別されることなく、保護者は障害児を小学校に就学させる義務を負い、市町村はその区域内にある学齢児童を就学させるに必要な小学校を設置しなければならず、市町村教育委員会はそのように措置することを義務づけられていたのである。しかし、法律の形式においては障害児に対する特殊教育の規定はおかれていなかつたものの、普通小学校には、障害児のための物的設備が設けられておらず、また、養護教諭をおくなどの人的機構の整備もなされていなかつた関係上、実際の運用としては、程度の重い障害児については、就学猶予の規定の適用、あるいは既設の養護学校への通学を説得指導する方法により、現行の制度と同じく、障害児に対しては分離特殊教育が行なわれていたのが実情であつた。

(2)  ところで、障害児の教育については、現在の制度がそうであるように、健常児と分離し特殊学校において特殊教育を施すのを正当とすべきか、あるいは所論のごとく、健常児と総合し、普通学校において普通教育を施すのを正当と考えるべきであろうか。教育の理念は、各人によつて多様であり、時代によつて進展がみられるものである。また、これに伴なつて、教育の理念を達成するための手段についての考え方も、各人によつて多様であり、時代によつて変遷がみられるものである。教育の理念がいかなるものであるか、その手段としてどのような方法が相当であるかについて判断するためには、教育の歴史を考え、その資料を十分に収集し分析検討することが必要である。しかし、裁判所は、公訴の提起された被告人の行為につき、刑事責任を問うべきか否かを審理するのがその職責であるから、その審理のため必要な範囲を超えて証拠調をすることは制度として許されず、また、なすべきことでもないのである。裁判所としては、被告人の刑事責任の存否を判断するのに必要な範囲において、さらに本件についていえば、被告人の行為の実質的違法性の有無の判断に必要な範囲内において、これを審理し判断すれば足り、それ以上にわたることは、むしろ許されないものといわなければならない。

(3)  以上の点をふまえて、障害児教育の理念について考えるに、障害児もやがて成長し、教育をおえて社会生活を営まなければならない。障害の程度が重く全く生活能力のない障害者についてはともかく、障害者は、可能なかぎりその残された能力を開発して自ら生活の道を樹てなければならないのである。もとよりそのための健常者の協力が必要であることはいうまでもないけれども、それはいうまでもなく協力であつて、単なる同情にとどまるものであつてはならない。このようにしてこそ、障害者は健常者とともに社会生活を営み、人間としての尊敬を得ることができるのである。このような障害者と健常者の協力関係は、可能なかぎり早い機会に確立されることが望ましい。すなわち教育をおえて社会教育を営むにいたつた段階では遅きに失するのであり、教育の過程において、すでにその協力関係が確立していることが期待されるのである。このように考えれば、障害児教育は、健常児と総合し、普通教育を施すとともに、その障害の程度に応じて残された能力を開発する特殊教育を行なうことが、障害児教育の理想とみるべきものであろう。このような総合教育こそ、健常者の障害者に対する理解を深め、その協力関係を確立するに有用であると思われる。身体障害者雇用促進法は、民間企業及び国、地方公共団体等に対して、一定の率以上の障害者を雇用することを義務づけているが、近年において、後者についてはほぼ充足する傾向にあるものの、前者については、その達成になお相当の距離のあることは公知のところであり、その原因として民間企業の事業者の障害者に対する理解の不足によることも多いと考えられるのである。したがつて、障害児、健常児の総合教育による相互理解は、将来において障害者の雇用を促進し、良好な社会生活に寄与するところが多いと思われるのである。以上の考察によつて、障害児教育の理念はおのずから明らかというべきであろう。

(4)  もつとも、前述のように、教育の理念は、各人によつて多様であり、時代によつて進展があるのである。その達成のための手段については、さらに各人によつて多様に考えられ、時代による変遷があることも留意を必要とするであろう。まず、障害児といい健常児といつても、その限界は必ずしも明白ではない。もつとも、現行法のもとにおいては、学校教育法施行令二二条の二によつて、障害児の故障の程度が規定されているので、普通小学校、養護学校小学部に就学すべき児童は一応明らかにされているけれども、この区別は、現在実際に設けられている教育機関の人的、物的な設備との関係を切りはなして考察することはできないのであつて、右の教育機関の整備にともない、その区別も変更されるべきものであろう。この意味において、故障の程度についての基準を、学校教育法七一条の二が政令に委任し、同法施行令二二条の二がこれを規定しているのは合理的なものということができる。ところで、障害児教育の理念については先に触れたが、この点に関しても見解は多様であり、ましてその実現の手段については、さらに多くの見解の存することは、ことの性質上けだしやむを得ないところであろう。また、障害児、健常児の総合教育が理想であるといつても、現在の教育機関の人的、物的設備は、その必要をみたすにははるかに及ばないものである。人的、物的に設備を整えるためには、当然のことながら巨額の費用を伴なうものであつて、一朝一夕にこれを実現することは困難であり、段階的にその実現をはかることもやむを得ないと思われる。現にその設備の整備については、養護学校の都道府県単位の設立すら、昭和五四年四月一日以降において実現したにすぎないのであつて、現在の普通小学校のすべてに、障害児のための物的設備を新たに設置することは、望ましいとしても直ちに実現できるとは、到底考えられないのである。やはり、それは順序を追つて整備すべきことであつて、このように考えると、現在実施されているように、障害児は養護学校小学部に、健常児は小学校に就学すべき制度も、現在の教育制度の発達の段階においてみるときは、けだしやむを得ないところであつて、本件の甲野太郎の障害の程度に則して具体的に考察するときは、かかる分離による特殊教育が、直ちに憲法一四条、二五条、二六条に違反し、教育基本法一〇条に牴触するということはできない。

(5)  障害児教育につき、障害児を健常児と分離して特殊教育を行なう現在の制度が、現在の社会的諸条件のもとにおいてはやむを得ないものであることは以上のとおりである。しかし、さらに具体的に、本件の甲野太郎個人の教育という観点からこれを考えてみるに、甲野太郎の人生は一回かぎりのものであり、教育を受ける機会も繰り返えすことはできないのである。甲野太郎の成長は、荏苒と制度の発達をまつことはできず、教育は行なうべき年代において行なわれなければ、そのおおかたの意義を失うものである。また、同児を残して先に世を去ることが確実な両親が、教育制度の現状にあきたらず、教育理念、教育手段の進展を待ち得ないとする焦躁感をいだくことはけだし当然のことと思われる。制度は常に社会の進展におくれて改革されるものであるから、この過程において、個人の行為が仮りに形式的に成文法に牴触することがあつても、実質的に違法の評価ができない場合があるのである。原審証人要倉大三が、障害児教育に関する形式的違法は教育者の良心によつて昇華されると供述しているのは、この場合にもあてはまるであろう。そこで具体的な場合について考察を進める。

(6)  証拠によれば、以下の経緯が認められる。すなわち、甲野太郎は、甲野一郎、同花子との間に出生したが、生後四か月で脳性麻痺と診察されたため、城北養護学校幼稚園部を経て、昭和五一年四月に同校小学部に入学した。しかし、同児が近隣の友人とともに近くの小学校に通学したい旨の希望をもち、また、両親も障害児の分離教育に疑問をいだき、昭和五二年八月末ころ、足立区教育センターに口頭で転校希望を伝え、同年九月城北校の当時の三浦校長に口頭で転校希望を伝えた。しかし、甲野太郎の入学当時の状態が、ある程度の学習能力はあるが、四肢は不自由で、移動は座つたままか、寝返りによらねばならず、起立が不安定であり、排便等はほぼ全面介助を要し、相手の問いかけは理解するが、言語による意思表明が大変困難であり、右転校希望当時においても右状態の好転が認められなかつたため、同校長は時期尚早と答え、また、甲野太郎の当時の担任教諭八名のうち、二名は、普通小学校で教育を受けるべきだとはいえないが、可能な限り協力はすべきである旨、その余の六名の教諭は、甲野太郎のためには養護学校で教育を受ける方がよい旨、それぞれ甲野花子に対して見解を述べ、区教委当局は、さらに同年一〇月ころ電話で城北校が適当である旨回答したため、両親は、さらに同年一月一四日付をもつて区教委に対し、太郎を花畑東小へ転校させるように、取計いにつき検討されたい旨の要望書と題する書面を提出した。しかし、区教委は、城北校が適当である旨を電話で、さらに昭和五三年一月二六日付「就学相談の結果について(通知)」と題する区教委事務局学務課作成名義の甲野一郎あての文書をもつて、すでに口頭で説明のとおり、現状の教育措置が適当と考えられる旨の回答をした。そこで甲野花子は、城北校を所管する都教委身障課等を訪ねて折衝したが、区教委の見解に同調する意向が示され、その間両親が花畑東小の当時の河野教頭らに同旨の希望を述べたが、区教委に意向を伝えるとの返辞を受けたものの、事態の進展はなかつた。しかし甲野花子は、養護学校から小学校への転学については教育行政機関にはさほど左右されるものではなく、受入れ校の教師の理解が得られれば実施されるものと考え、花畑東小への転校を希望していることを示すべく、連日同校へ甲野太郎を通わせることにし、昭和五三年三月三一日付の同校校長の人事異動を新聞で知ると、昭和五三年四月五日ころ同校を訪れ、着任していた平出省三校長にこれまでの経緯を説明し、甲野太郎を同校児童と一緒に教育してほしい旨及び机、椅子が必要であれば自己において用意する旨を話した。しかし、前任校長から右異動発令前に、甲野太郎の転校希望の出されていること及び同人の心身発達状況並びにその就学に関する権限が教育委員会にあることの引継を受け、更に、同月二、三日ころ教育委員会当局から甲野太郎の転校希望のあつたことや就学指導委員会において甲野太郎の知能検査、行動観察等をした結果、城北校において教育を受けるのが同人のため適切である旨の判定がなされた旨を聞いていた平出校長は、教育行政機関である教育委員会で相応の通知、指導をしていたものと理解していたのみならず、当時甲野太郎の花畑東小への転校を決定する措置はとられていなかつたこともあつて、教育委員会から転校についての指示を受けていないことを理由に、同人の登校を拒絶した。さらに、同月六日の入学式、始業式には甲野太郎の転校要求を支援する者らが多数来集することが予想されたため、右事項を所管する区教委に対し、関係職員において現場で指導説得してくれるよう要請し、当日約一〇名の右職員の応援を得たが、右支援者らと同校への入構をめぐつて小ぜり合いがなされた。その後、甲野太郎は、昭和五三年四月六日以後城北校へ登校せず、これを支援する者らに伴われて、自主登校と称して平日には花畑東小北門前に赴き、右の支援者らが甲野太郎の学習指導等をしていたため、城北校は、昭和五三年四月六日から昭和五四年三月二八日までの間、二十回余にわたり、電話で、若しくは甲野方を訪問して、又は文書により甲野太郎の登校を促し、区教委にも連絡した。また、昭和五四年四月二日に城北校校長として着任した城ノ戸保孝は、同月七日、神代教頭を交えて甲野太郎の両親と面談し、同児に適応した教育を受けるべきである旨説得したが、両親は、退学届を置いて辞去したため、同月二一日甲野花子と同児に登校を勧め、同月二六日甲野方で神代教頭と共に甲野花子に退学届を返却して登校を勧めたほか、本件の前日である同年五月二五日にも神代教頭のほかに二名の担当教諭を伴い、このようなべテランの先生を信頼して城北校の教育を受けて貰いたいと説得し、このように、城北校当局は、昭和五四年四月二日から同年五月二六日の間にも、前後一〇回にわたり、事理を説いて城北校への登校を促したが、これに応じなかつた。

(7)  以上の経緯で明らかなように、甲野太郎の教育については、当時、足立区教委、花畑東小、城北養護学校のいずれの担当者も、その多くが同児の障害の程度にかんがみ、養護学校における教育が相当であるとの見解であり、甲野太郎の両親も、これらの機関との折衝の過程において、これらのことは十分に理解していたと認められるのである。したがつて、前述のように障害児の親として、現在の制度に対する不満があり、それが焦躁感にまでたかめられていたとしても、甲野太郎が現におかれている客観的条件にかんがみ、また、同児が学習においても、機能回復訓練においても、猶予を許さない最重要な教育を必要とする成長期にあることを考慮し、最善とはいえなくとも次善の道を選択する冷静な判断が期待されていることを看過することはできない。そして、これらの状況を総合して考えるときは、本件において、障害児に対する教育制度の改善を求めるための運動は、運動それ自体は正当であるとしても、平和的な行動にとどめることが必要であつたといわなければならない。したがつて、昭和五三年四月六日以降支援者らが甲野太郎の自主登校として、花畑東小の校舎に立入り、これを制止する同校平出校長及びその職員との小ぜり合いが頻発したため、平出校長が、甲野太郎及びその支援者の校内への立入りを禁止した措置は、その管理権に基く正当なものというべく、管理権の濫用ということはできない。

(8)  ところで、被告人の本件行為は原判示第一ないし第三のとおり、立入りを禁止された花畑東小の門扉を乗りこえて校内に侵入し、同校校長平出省三に共同して暴行を加え、同校教諭石川直幸に暴行を加えたという事案である。それは被告人が支援する甲野太郎の自主登校の過程において派生的に生じたものであるが、そもそも甲野太郎の普通小学校への転校は、現行の法制度のもとにおいては原則として認められないところであり、実現するとしても例外的なテスト・ケースとして許される場合があるにすぎない状況にあつたのである。したがつて、現行の分離、特殊教育の非を訴え、普通小学校における総合的な教育の実現をはかるとしても、そのための運動は平和的にとどまるべきであつたことは、前述のとおりである。まして、被告人は右の運動を支援する者であり、甲野太郎自身あるいはその両親とは立場を異にする第三者であるのである。障害児の総合教育の推進に共鳴し、熱意をいだく支援者とはいつても、やはり当事者とは異なるのであるから、一歩離れて冷静に客観的に判断して運動をすすめるべきであり、殊に被告人は足立区役所の職員として公務に従事していた者であるから、勤務時間外の私的な立場における支援活動とはいえ、このような行きすぎの行動は許されるものではない。すなわち、被告人の本件行為は、障害児の総合教育の実現のための運動という目的においては正当なものであるが、その手段としては相当なものとは到底認めがたく、結局被告人の本件行為に実質的違法性がないとする弁護人の主張を排斥した原判断は、結論において正当であり、所論は採用しがたい。

<以下省略>

(船田三雄 櫛淵理 門馬良夫)

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